LOGIN町役場の資料室は、午前の光に照らされながらも重苦しい空気を纏っていた。
古い木造の建物の一角、誰も近寄らない埃まみれの棚の奥に、祐真は目的のものを見つけた。 ──町内で発生した行方不明事件記録簿。 厚いファイルを開いた瞬間、紙の黄ばみと古い墨の匂いが鼻を突いた。 時代を感じさせる手書きの記録。丁寧な筆跡で記された事件の数々が並んでいる。 そして──二十年前の項に、その名はあった。 「夜の気配が町を包み込む頃、氷川美奈は布団の上で身を固くしていた。 窓の外から吹き込む風は冷たいはずなのに、耳に届くのは生暖かい囁き。 ──美奈…… ──こっちへおいで…… 聞き慣れた声。まるで亡くなった友人の声のようにも聞こえた。 美奈は震える手で耳を塞ぐが、囁きは内側から響くように頭の奥に忍び込んでくる。「やめて……私、行かない……」 そうつぶやいても、声はやまない。むしろ強く、優しく、甘やかすように重なっていく。 そして気づけば、彼女の足は勝手に床へ降りていた。 一方その頃、橘春香は寺の一室にいた。 古沢住職と祐真とともに、ろうそくの明かりの下で向かい合っている。「やはり……美奈は森に呼ばれていますね」 古沢の低い声に、春香は顔色を失った。「彼女はまだ十七歳。私のくれはと同じ……どうしてこんなことに……」 春香の言葉は途切れ、手は小刻みに震えていた。 二十年前、最初の娘を失った時と同じように。 祐真は彼女を見つめ、静かに言った。「森が彼女を選んだんじゃない。弱った心を、森が狙っているんです」「弱った心……?」「美奈は何かを抱えているはずです。だから囁きに縋ろうとしてしまう」 その時、古沢が眉をひそめた。「……遅い」 春香と祐真は顔を見合わせた。 住職の目が鋭く光る。「森の声が、もう彼女を動かし始めている」 深夜。
祐真は荒い息をつきながら目を覚ました。 天井の木目が視界に映る。どうやら宿舎の自室に戻ってきていたらしい。額には冷たい汗がにじみ、両手は震えていた。 ──夢じゃない。 いや、夢ではあったのかもしれない。だが、あの鎖の痛みも、少女の声も、胸に残る現実そのものだった。 身体を起こすと、窓の外で人の声がした。 祐真はカーテンを開け、庭先に目をやる。そこには春香の姿があった。 彼女は誰か少女と話している。 その少女は長い黒髪を肩に流し、制服姿のまま立っていた。 年の頃は十七。くれはと同じくらいだろう。 少し青白い顔色に、どこか影を落とした眼差し。 祐真は無意識にドアを開け、外へ出た。「──氷川美奈さんだよ」 春香が紹介する。「町の高校に通っているんだけど、最近どうも森に引き寄せられるみたいで……心配でね」 美奈は祐真をちらりと見た。 その瞳には恐怖と同時に、何かを知っているような色が宿っていた。「……あの森、声がするんです。 夜になると、名前を呼ばれているみたいで……私、行っちゃいけないってわかってるのに」 震える声に、祐真の背筋が粟立つ。 ──自分だけではない。この町に住む者が次々と森に囚われていく。 その時、低い声が割って入った。「森の呼び声は、ただの風ではない」 振り向けば、古沢透住職が立っていた。 僧衣に包まれた姿は以前と変わらぬ落ち着きを放っていたが、その目は一層険しくなっている。「また始まったのだよ。二十年前と同じように」 古沢の
紅葉が血のように降りしきる世界の中、祐真はなおも膝をついたまま、息を荒げていた。 鎖は影から伸び、彼の足首に食い込んでいる。その冷たさは、金属の感触というより氷のようで、じわじわと彼の体温を奪っていった。 立ち上がろうとしても、鎖が強く引き戻す。 耳元で低い声が囁いた。「どこへ行く? お前に未来はない」 その声は紛れもなく祐真自身のものだった。 振り返れば、そこに立っているのは若い頃の自分。まだ事件に理想と正義を抱き、無謀に突き進んでいた頃の祐真だった。 だが、その表情には怒りと失望、そして憎悪が宿っていた。「お前は何一つ救えなかった。少女を見殺しにし、家族を苦しめ、ただ罪悪感に浸って逃げてきた」 影の祐真は冷笑を浮かべた。「それでもまだ、この町の呪いに首を突っ込むつもりか? 哀れだな」 祐真は唇を噛みしめた。 彼は反論しようとしたが、言葉が出てこない。 ──確かに、あの時救えなかった。あの失敗は事実であり、逃れられない傷だった。 鎖がさらに強く締まり、骨が軋む音がした。 痛みに顔を歪めると、影の祐真が歩み寄ってきて、耳元で囁いた。「認めろ。お前は弱い。誰ひとり救えない」 その瞬間、紅葉が舞い散る空間に別の声が割って入った。 それは、失われた少女のか細い声。「……助けて、祐真さん」 祐真は顔を上げた。 紅葉の奥に、再びあの少女の姿が見えた。白いワンピースは赤に染まり、瞳は悲しみに濡れている。 その視線が、彼の心を貫いた。「俺は……」 声が震える。「俺は、あの時救えなかった。
紅葉の舞う赤い世界の中、祐真は少女の幻影を見つめていた。 彼女は薄い微笑みを浮かべていたが、その目には深い悲しみが宿っている。「祐真さん……」 その声は、彼の心臓を直接掴むように震わせる。 彼女の名を口に出そうとしたが、声が出ない。 あの事件の日、目の前で命を落とした少女──名を呼ぶことすら、祐真には許されていないように思えた。「どうして、来てくれなかったの?」 少女の唇がそう動いた瞬間、祐真の胸に鋭い痛みが走った。 脳裏に、過去の記憶が鮮烈によみがえる。 雨の夜だった。 祐真は当時、まだ二十代前半の刑事見習い。連続失踪事件の調査に奔走していた。 通報を受け、少女の行方を追って森へ向かったが、上司から「証拠が揃うまで動くな」と制止され、彼は町に留まった。 ──だが、その数時間後。 少女の遺体が森の奥で発見された。 祐真は現場に駆けつけたが、雨に濡れた彼女の体を抱き上げた時には、もう手遅れだった。 その温もりが失われていく瞬間の感覚は、今も彼の掌に焼き付いて離れない。 幻影の少女が囁いた。「あなたは、私を助けられなかった」 祐真は拳を握り、唇を噛みしめた。「……あの時、俺は上の命令に従った。だが、本当は自分が動く勇気がなかっただけだ。 救えなかったのは……俺の弱さのせいだ」 紅葉の風が強まり、少女の影が揺らめいた。「それでも、どうして今になって、また森に来たの?」 問いかけは静かだが、胸を抉るよう
祐真は再び夢の中にいた。 昨日と同じ、暗く果てしない廊下。だが今度は足音も声もなく、ただ自分の呼吸音だけが響いている。 目の前には、あの黒い扉があった。 重厚で、触れることすら拒絶してくるような存在感。扉の隙間からは冷たい風が吹き出し、血のような鉄の匂いが漂っている。 祐真は拳を握りしめ、足を前に出した。 ──逃げるな。 胸の奥で、もうひとりの自分がそう囁いた。 手を伸ばし、取っ手に触れる。 次の瞬間、鋭い痛みが掌を走った。 見れば、取っ手には無数の棘が生えていて、彼の手を刺していた。 赤い血が滴り落ち、床に染みをつくる。 それでも彼は、力を込めて扉を押し開いた。 扉の向こうに広がっていたのは、歪んだ映像のような世界だった。 森。赤い紅葉が風に舞い、地面は血のように赤黒く染まっている。 そこに立っていたのは、一人の少女。 ──あの事件の犠牲者。 かつて祐真が救えなかった少女だった。 彼女は笑っていた。だがその笑みは冷たく、唇は血に濡れている。「祐真さん……どうして来てくれなかったの?」 胸がえぐられる。 祐真は足を踏み出そうとするが、重い鎖が足首を縛りつけていることに気づく。 見下ろすと、鎖の先は自分の影につながっていた。「お前が俺を縛っているんだ」 背後から声が響く。振り返ると、再び若い頃の自分が立っていた。「罪悪感に酔っている限り、お前は何も救えない」 少女の姿は揺らぎ、やがて紅葉の中に溶けていく。 彼女の声だけが残った。「祐真さ
森での調査が一段落したその夜、祐真は宿舎のベッドに横たわっていた。 しかし眠気は訪れず、代わりに胸を締めつけるような痛みが押し寄せてくる。 ──まただ。 目を閉じた瞬間、彼は自分の「内側」に引きずり込まれていった。 そこは暗い廊下だった。壁も天井も曖昧で、ただ濃い影と冷たい空気が広がっている。 足音が響く。 振り返ると、過去の自分が立っていた。まだ二十代前半、捜査に血走っていた頃の祐真だ。 その目には焦燥と怒りが宿っている。「お前はまた同じことを繰り返すのか?」 若い祐真が、低く問いかけてくる。 胸に鋭い棘が刺さったような痛みを覚え、祐真は言葉を失った。 ──あの事件。 守れなかった少女。救えなかった命。 彼の心に焼き付いた失敗は、時を経ても色あせることはなかった。 廊下の奥から、少女の声が響く。「どうして、助けてくれなかったの……?」 祐真の足は鉛のように重く、声のする方へ一歩も進めない。 手を伸ばしても届かない。 罪悪感の濁流が押し寄せ、彼を溺れさせる。 なぜ自分はこの事件に執着するのか。 ──答えはわかっている。 もう二度と、同じ後悔を繰り返したくない。 それだけが、彼を突き動かしていた。 だが、過去の自分が再び囁く。「執着は、ただの逃げじゃないのか? 本当に救いたいのは誰だ?」 祐真は言葉を詰まらせ、暗闇の中で立ち尽くす。 やがて廊下の先に扉が現れた。 重く黒い扉。その向こうに進むことを、彼の心は拒んでいた